419列車空襲のあらまし

 

八王子空襲後、5日に全面復旧した中央本線

 1945年8月2日未明、八王子市は爆撃機B29による焼夷弾の空襲を受け市街地の約8割が焼失、約450名が亡くなり、中央線は不通になりました。

 しかし、順次復旧し、5日には全面復旧、419列車(電気機関車ED16-7が牽引)は新宿から山梨方面に向かうはじめての列車でした。この日は日曜日だったので、兵隊、帰省客、疎開先に向かう乗客で満員になりました。

 

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銃撃と死者・負傷者の収容 

 列車が湯の花トンネル東側の出入り口(当時は単線。現在は上り線として使用)に近づいた時、追いかけるように飛来した第7戦闘機集団506群団462戦隊のグラント大尉らのP51が急降下して機銃掃射をあびせました。

 列車は架線が切断されたこと、急ブレーキをかけたことでトンネルの中に機関車と客車1両半が入ったところで急停車、トンネル外の車両は繰り返し銃撃され、40名近くが即死しました。乗客は銃撃の合間をみて車外に逃げ出し、北側の山林や線路の下を流れる“から沢”、トンネルの中などに隠れました。

 銃撃が終わると、地元の人々、浅川町警防団員、動員学徒、乗客らが家々の雨戸(戸板)はずして現場に持ち込み、車内・車外から負傷者、遺体を搬出し、現場から旧甲州街道に下ったところにある峯尾丑太郎宅の庭先に並べました。

 負傷者は中島飛行機浅川工場の疎開運送をしていた大和運輸などのトラックに乗せられて、町内の小林病院(現・駒木野病院)に搬送され、手当を受けました。

 

負傷者の収容先

 多数の死者・負傷者が出たことは町中に伝わり、町民は包帯がわりに白い布切れをもって病院にかけつけました。

 しかし、小林病院では十分な手当ができず、負傷者は炎天下にトラックで元八王子村中宿の中島飛行機武蔵製作所武蔵病院の疎開病院、さらに八王子市中野町の日本機械診療所、田町の都立八王子病院、そして立川市の東京第二陸軍共済病院、多摩村聖蹟桜ヶ丘の桜ヶ丘保養院(現・桜ヶ丘記念病院。立川市の立川陸軍病院疎開)まで運ばれました。

 桜ヶ丘保養院には最も多くの負傷者が運ばれましたが、輸送途中や到着後に亡くなった人もいました。

 

遺体の荼毘と遺骨の引き取り

 峯尾宅の庭先に並べられていた52体のうち49体の遺体は、翌日、高尾山の北側の日影沢に運ばれ、一括して荼毘に付されました。

 遺骨は骨箱に納められ、摺指地区にある常林寺に安置され、遺族の引き取りを待ちました。結局、1体の遺骨を除いて引き取られました。