調布市東部公民館での企画展

調布市東部公民館(調布市若葉町1-29-21)での企画展「中央本線419列車空襲と中島飛行機浅川地下工場」が終わりました。

 

企画展では3月2日から24日まで展示スペースに、左手には中央本線419列車空襲の、右手には中島飛行機浅川地下工場のパネルを展示しました。 

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小さな展示でしたが、3月2日の「読売新聞」多摩版、武蔵野版で紹介されたこともあり、調布市外からも見学者がいたそうです。

 

また、別の用事で公民館を訪れていた小学生が、浅川地区社会教育推進委員会が作成した419列車空襲のパネル3枚を熱心に読んでいたとのことでした。

 

 なお、3月2日(土)午前10時から正午まで、同公民館で齊藤勉が「中央本線419列車空襲-日本最大級の列車空襲の悲劇」と題して講演を行いました。受講者は約40名でした。

 

◇3月30日午前中、会のメンバー5人で、1945年当時、浅川駅(現在は高尾駅)に勤務していた女性駅員Kさんに取材をしました。

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(会場は八王子市立浅川小学校地域連携の教室)
 

1928(昭和3)年12月生まれのKさんは、1944(昭和19)年ごろ、近所に住んでいた駅助役の誘いで、小学校を卒業後してから勤めていた機屋を辞めて浅川駅で働き始めました。

 

出改札をはじめ列車の連結作業、駅構内へのアナウンス、初沢踏切での遮断機の上げ下げをする踏切手、隔日で駅への泊まり勤務など男性と同じような仕事をしたそうです。

 

 1945年8月5日には駅に引き戻されてきた419列車を目撃、車内は血の海で、残っていた荷物は男性の駅員が車掌の宿泊する部屋へ運び入れ、収容しきれない分は元八王子村のどこかに運ばれたとのことでした。

 

 91歳のKさんは大変お元気で、よくご記憶だったので、4月末から5月初めには駅構内とその周辺の案内をしていただく予定です。

平和フェスティバル「記憶にとどめたい多摩の戦中」 知られざる空襲と戦争遺跡

平成31年3月、調布市東部公民館で以下のイベントがあります。
419列車空襲と浅川地下壕の展示、講演があります。
以下が概要です。

平和フェスティバル「記憶にとどめたい多摩の戦中」
知られざる空襲と戦争遺跡
 
写真・資料展示
会期/3月2日(土)〜24日(日)
時間/午前9時〜午後9時30分
   *月曜休館
 
【講演会】
 
■ 3月2日(土)午前10時から正午
 「中央本線419列車空襲-日本最大級の列車空襲の悲劇」
 
■ 3月7日(木)午前10時から正午
中島飛行機浅川地下工場 高尾駅近くに残る巨大地下壕」
 
・会場  東部公民館学習室
 
・定員  各会40人
 
・講師  齊藤勉(いのはな会会長)
 
*申込みは 2月6日から東部公民館へ
 
詳しくは以下のHPまで
 

 ブックレット『中央本線419列車』の刊行にあたって(2018年8月)

 


 このたび、いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会では念願でした中央本線419列車空襲の悲劇について、揺籃社ブックレット11『中央本線419列車』として刊行することができました。

 

 本会は1948年8月の結成以来、毎8月5日にこの空襲の犠牲者への慰霊の集いを開催、今年で35回を迎えました。この間、「戦災死者供養塔」を現在地に移し(1986年)、東京八王子南ロータリークラブのお力添えにより「供養の碑」を建立(1982年)しました。

 

 最近では旧甲州街道脇に入口の碑を建立(2017年)、説明板(案内板)をやはり東京八王子南ロータリークラブのお力添えで入口の碑に脇に建立(2018年)するなどしてきており、碑・モニュメントの設置はひとつの区切りがつきました。

 

 一方、戦後73年がたち、空襲の体験者からその体験を直接伺うことが難しくなり、慰霊の集いでもこの空襲の惨禍を乗客・遺族として証言される方が少なくなりました。そこで本会ではこれを本という形で残し伝えたいと考え、この2年間編集をすすめてきました。

 出典は記しませんでしたが、内容は体験記に書かれたり、私たちに語ってくれたりした“事実”です。P51の飛来状況、419列車の運行状況などは日記や日米の公的史料に基づいています。

 乗客の一人だった森正蔵毎日新聞記者の日記によりこの空襲の惨禍を具体的に明らかにすることができましたし、P51については、最初の銃撃をしたグラント大尉の証言や462戦隊の飛行コースを推定するなど最新の調査・研究も盛り込みました。

 

 戦争の惨禍は場所も人も選びません。敗戦のわずか10日前、高尾山の北の静かな山間部を走っていた列車で起きたこの空襲の惨禍を知っていただきたいと思います。

中央本線419列車空襲とは

 419列車空襲とは、1945(昭和20)年8月5日、浅川駅(現・高尾駅)を発車した電気機関車が牽引する8両編成の新宿駅発長野行きの419列車が、発車して間もない12時20分ごろ中央本線湯の花トンネル(全長約180㍍)の東側出入り口で、4機のアメリカ陸軍の戦闘機P51の銃撃を受けた空襲です。

 

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乗客・森正蔵が描いた銃撃の模様

 超満員だったこともあり、40名近くが即死、結果として52名が亡くなり、133名が負傷しました(警視庁調べ)。しかし、収容先で翌日以降亡くなった方を含めると60名以上の方が亡くなったと推定されます。

 

 大戦末期、艦載機(グラマンF6Fヘルキャット、チャンスボードF4Uコルセアなど)やP51などの小型機は、列車に対して頻繁に銃撃をあびせました。その結果、各地で以下のような被害がでました。

 

西鉄大牟田筑紫駅列車銃撃空襲(福岡):8月8日、P51による上りと下りの2つの列車に対する銃撃で60名以上が死亡、100名以上が負傷。

 

山陰本線大山口駅列車銃爆撃(鳥取):7月28日、艦載機による銃撃とロケット弾攻撃で44名が死亡、31名が負傷。

 

東北本線小金井駅列車空襲(栃木):7月28日、P51による118列車と駅への銃撃で、乗客と駅にいた人々の合わせて31名が死亡、40名以上が負傷。

 

 このように419列車空襲は単独の列車に対する銃撃では、最大級の犠牲者を出しました。



419列車空襲のあらまし

 

八王子空襲後、5日に全面復旧した中央本線

 1945年8月2日未明、八王子市は爆撃機B29による焼夷弾の空襲を受け市街地の約8割が焼失、約450名が亡くなり、中央線は不通になりました。

 しかし、順次復旧し、5日には全面復旧、419列車(電気機関車ED16-7が牽引)は新宿から山梨方面に向かうはじめての列車でした。この日は日曜日だったので、兵隊、帰省客、疎開先に向かう乗客で満員になりました。

 

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銃撃と死者・負傷者の収容 

 列車が湯の花トンネル東側の出入り口(当時は単線。現在は上り線として使用)に近づいた時、追いかけるように飛来した第7戦闘機集団506群団462戦隊のグラント大尉らのP51が急降下して機銃掃射をあびせました。

 列車は架線が切断されたこと、急ブレーキをかけたことでトンネルの中に機関車と客車1両半が入ったところで急停車、トンネル外の車両は繰り返し銃撃され、40名近くが即死しました。乗客は銃撃の合間をみて車外に逃げ出し、北側の山林や線路の下を流れる“から沢”、トンネルの中などに隠れました。

 銃撃が終わると、地元の人々、浅川町警防団員、動員学徒、乗客らが家々の雨戸(戸板)はずして現場に持ち込み、車内・車外から負傷者、遺体を搬出し、現場から旧甲州街道に下ったところにある峯尾丑太郎宅の庭先に並べました。

 負傷者は中島飛行機浅川工場の疎開運送をしていた大和運輸などのトラックに乗せられて、町内の小林病院(現・駒木野病院)に搬送され、手当を受けました。

 

負傷者の収容先

 多数の死者・負傷者が出たことは町中に伝わり、町民は包帯がわりに白い布切れをもって病院にかけつけました。

 しかし、小林病院では十分な手当ができず、負傷者は炎天下にトラックで元八王子村中宿の中島飛行機武蔵製作所武蔵病院の疎開病院、さらに八王子市中野町の日本機械診療所、田町の都立八王子病院、そして立川市の東京第二陸軍共済病院、多摩村聖蹟桜ヶ丘の桜ヶ丘保養院(現・桜ヶ丘記念病院。立川市の立川陸軍病院疎開)まで運ばれました。

 桜ヶ丘保養院には最も多くの負傷者が運ばれましたが、輸送途中や到着後に亡くなった人もいました。

 

遺体の荼毘と遺骨の引き取り

 峯尾宅の庭先に並べられていた52体のうち49体の遺体は、翌日、高尾山の北側の日影沢に運ばれ、一括して荼毘に付されました。

 遺骨は骨箱に納められ、摺指地区にある常林寺に安置され、遺族の引き取りを待ちました。結局、1体の遺骨を除いて引き取られました。

 

 

 

戦闘機P51とは

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第7戦闘機集団506群団462戦隊のP51


 P51はアメリカ陸軍の戦闘機でムスタングともいい、最高のプロペラ機とされ、朝鮮戦争でも出撃しています。

 アメリカは1944(昭和19)年11月から爆撃機B29で爆弾と焼夷弾による日本本土の本格的空襲を開始、翌年2月からは航空母艦から飛び立った艦載機も爆弾や銃撃による空襲を行い、人々は“カンサイキ”空襲として恐れました。

 

 P51はB29の護衛を目的に4月7日以来、硫黄島から飛来しましたが、やがて単独でも飛来し、主に飛行場を、さらには工場、学校、列車、駅を銃撃しました。この飛行部隊は第7戦闘機集団といい、7月には硫黄島に4つ群団で347機が配備されていました。

 硫黄島から本州までは燃料タンクを装備して往復で8時間以上かかる航続距離の限界に近い超長距離飛行であり、銃撃できる時間は数十分でした。B29の空襲に比べれば銃撃被害は少なかったのですが、人々はP51も“カンサイキ”と思い込みました。

 

八王子には何度も飛来し、特に7月8日の銃撃では、元八王子村泉町の隣保館に学童集団疎開していた品川区原国民学校4年生の神尾明治君が亡くなりました。

 母親は明治君が背負っていたランドセルを相即寺地蔵堂の地蔵にかけました。今でもそのまま残っており、“ランドセル地蔵“として知られています(年3回公開)。

 また、JR高尾駅1番線ホームの屋根の支柱(支柱番号31と33)には機銃掃射のあとが残っています。

 

慰霊の碑の建立・映像と慰霊の集い

  1950(昭和25)年、浅川町上長房青年団が戦災死者供養塔を現場の線路北側に建立しました。

 1984年、いのはなトンネル列車遭難者慰霊の会(通称いのはな会)が発足し、8月5日に慰霊の行事を始めました。供養塔が線路の北側で危険なため、会では地元の方のご理解・ご協力をえて現在地に移しました。

 さらに1992(平成4)年、東京八王子南ロータリークラブのお力添えにより、お名前が判明している44名を刻んで「慰霊の碑」、2018年には入り口に案内板・説明板を建立することができました。

 

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 映像では2007年8月中央大学総合政策学部松野ゼミナールが「第40回 多摩探検隊 湯の花トンネル列車銃撃空襲」を製作しました。

 戦後70年の2015年3月9日放送のTBS-JNN系列「戦後70年 千の証言スペシャル 私の街も戦場だった」は419列車空襲を取り上げました。オープニングでは湯の花トンネルが使われ、ドラマ化もされました。

 

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